KenjiSawada『沢田研二』24
手元にある1976年5月ごろの雑誌GOROです。37年を経過しました。
目玉の取材記事は、沢田研二さんです。
この取材時の沢田研二さんの表情いいです。

表紙は、岩崎宏美さん。

タイトルに、「沢田研二が陽水・拓郎に挑戦」なんて書いてあります。
1972年に全曲自身で手掛けたジュリーの「JULIE IV 今僕は倖せです」を
引き合いに出して、人気絶頂になってきたシンガーソングライターに挑戦
するかのような内容です。
沢田研二さんが自作曲に意欲的で今後もその路線は絶やすことなくリリ
ースしていきたい、との意向と、
フォーク畑の陽水・拓郎との接点を見出して、3人のビッグネームを表紙に
連ねたかったというちょっと無理がある企画のよう・・です。
ちなみに、1972年の拓郎はメジャーデビューしたぐらい、陽水はまだデビュ
ー前、その後も、所属事務所やレコード会社側の縛りによって、なかなか
自由に音楽を製作することができず悩んでいた時期で、
1975年には会社をやめたりしていますので、1972年にすでにセルフプロ
デュースを成し遂げたジュリーこと沢田研二さんは、成功例としての先駆
者です。
目玉の取材記事は、沢田研二さんです。
この取材時の沢田研二さんの表情いいです。

表紙は、岩崎宏美さん。

タイトルに、「沢田研二が陽水・拓郎に挑戦」なんて書いてあります。
1972年に全曲自身で手掛けたジュリーの「JULIE IV 今僕は倖せです」を
引き合いに出して、人気絶頂になってきたシンガーソングライターに挑戦
するかのような内容です。
沢田研二さんが自作曲に意欲的で今後もその路線は絶やすことなくリリ
ースしていきたい、との意向と、
フォーク畑の陽水・拓郎との接点を見出して、3人のビッグネームを表紙に
連ねたかったというちょっと無理がある企画のよう・・です。
ちなみに、1972年の拓郎はメジャーデビューしたぐらい、陽水はまだデビュ
ー前、その後も、所属事務所やレコード会社側の縛りによって、なかなか
自由に音楽を製作することができず悩んでいた時期で、
1975年には会社をやめたりしていますので、1972年にすでにセルフプロ
デュースを成し遂げたジュリーこと沢田研二さんは、成功例としての先駆
者です。
この記事へのコメント